子宝どっとこむ

 

 白夜

1848年(27歳)の作品
お勧め度☆☆☆
出展:角川文庫クラッシックス、小沼文彦訳

空想家でセンチメンタリストな貧しいインテリ青年を主人公とした作品をドストエフスキーはよく書くが、それはおそらく、誰もが言うように彼自身がそうした青年だったからなのだろう。しかし、どこまでが本物なんだろうか?全てが本物だとしたら彼は変人ということになってしまう。自分にも同じように考えるところがあるため、自分は異常にドストエフスキーが好きなのだが、自分も変人ということの証なのだろうか。
『白夜』は、良心の呵責、男女の義務と友情、空しく過ぎ去ろうとしている青春時代に対する焦りついて、彼らしい独特の言い回しで軽快に綴った、愛すべき小品である。総ページ数115頁にして、これだけのドラマ。わずか五日間の出来事ではあるが、最後の文脈にあるように、青年にとっては長い人生と比べても決して不足のない一瞬であったことだろう。何気に選んだドストエフスキー最初の紹介本ではあるが、最初にふさわしい作品であったと思う。

まったく藪から棒に、この孤独な私をみんなが見捨てようとしている、みんなが私から離れようとしているというような気がしはじめたのだ。それはもちろん誰だって、「いったいどこのどいつだね、そのみんなというのは?」とたずねる権利を持っているにちがいない。なにしろ私はこれでもう八年もペテルブルグに住んでいながら、ほとんど一人の知人をつくる才覚も無かった男なのだから。
(P5より引用)

彼らしい自分自身に対する皮肉な台詞で、お気に入りな言い回しである。権利という概念に対する皮肉も込められているように感じて心地よい。
人間にはバイオリズムがあり、無理が利く健康体、機嫌、仕事が冴え渡る頭脳などはそうしたバイオリズムの浮き沈みによって時々刻々と状態が変わる。
そんな中で特に機嫌の良し悪しに関わるバイオリズムは、傍から見ては変化が分からないほどゆっくりと小さな軌道を辿るのだが、その起伏が激しい人のことを躁鬱病というありがたくないレッテルが貼られる。
はっきりさせよう。自分は躁鬱病だ。別に医者に宣告されたわけではないが、代わりに自分で宣告してやった。今では随分とその起伏も穏やかになったが、確かに「今はハイで何をやっても楽しくて仕方が無い、有頂天な時間だな」というときと、「ああ、もうだめ。何をやってもうまくいかない。いっそ死んでしまったほうが幾らかましだ。」というときが、前触れも無く自分を襲う。言うまでも無いことではあるが、付け加えると、その中間の状態が最も長い時期ではある(でなきゃ、既に気が狂ってる)。

この部屋にいるとどうしてこうも気詰まりなのだろうか?そしてどうも合点がいかないままに、緑色のすすけた壁や、女中のマトリョーナのお陰でますますふえてゆく蜘蛛の巣だらけの天井をながめまわし、家具という家具を何度も調べなおし、不幸の原因はもしやこれではあるまいかと考えながら、椅子まで一つ一つあらためてみた。
(P8より引用)

まるで蜘蛛の巣が増えるのはマトリョーナ一人のせいだと言わんばかりの言い回しが、自己中心的な彼らしいところである。
自分は人との間に壁を張る傾向がある。それは他人が自分の領土に入り込むのを阻止するためではなく、自分が他人の領土に入り込むのを阻止するためである。自分には、心を開いた人に対しては、築いた壁を取っ払い、その人の領土(プライバシーを含めたあらゆる事柄)に無断で、しかも土足でズカズカと入り込む性格があり、有頂天になってしまって、そこが自分の領土だとでも言いたげに、したい放題、言いたい放題になってしまう。
ふとわれに返って自分が領土侵犯していることに気がつくと、あわてて自分の領土内に戻り、もともとあった壁よりも更に高い壁を築き、気恥ずかしさに心を狂わせ、まるで領土侵犯をしたのは自分のせいではなく、自分に心を開かせた相手のせいだと言わんばかりに、自分だけでは飽き足らず相手をも非難し、固い殻の中に自分を閉じこめてしまう。
そうならないように最初から壁を張るのだが、そんなんじゃ社会で生きていくことなど出来はしない。したがって、少しずつ、少しずつ、亀の歩行と同じぐらいの速さではあるが、自分を変えようと努力している。壁を取っ払いつつも、領土外にやたらに飛び出さないように。しかし、それは今もって難しいことである。

私はマトリョーナを呼びつけて、蜘蛛の巣のことやら、その他彼女のだらしないやり方一般について、いきなり父親的な訓戒をあたえてやろうかなどという妙な考えまで起こしたものである。ところが彼女はいかにもけげんそうに私の顔をチラリと見ただけで、一口も返事をしないでさっさと向こうへ行ってしまった。お陰で例の蜘蛛の巣は今なお平穏無事に元の場所にぶらさがっている。
(P9より引用)

プロレタリアートな時代のロシアの父親には憧れと恐れの念を抱く。おそらくこの青年も同様な気持ちで訓戒をたれようとしたのだろう。今のところ想像だが、ドストエフスキーの父親はおそらく目を合わせるのも恐ろしい厳格な人物だったに違いない。彼の作品の中にはこうした父親像を彷彿とさせる箇所がところどころに見受けられる。
自分は分析するのが好きだ。それこそ何でもかんでも分析対象としたがる。特に人の性格を分析するのが大好きで、他人のことをあれこれと、少ない情報・状況証拠から分析する。敢えて言うと、自分は分析するのが好きなのではなくて、自分の分析結果に酔いしれるのが好きなのだ。
この『自分に酔う』というのが曲者で、『酔った』勢いで本人に分析結果を公表してしまうことがある(父親的訓戒を垂れるかのように)。言われた本人は、何の前触れも無く恐ろしく突然に(伝える私にとって突然でないなら、言われる本人も突然ではなかろう、という妙な思い込みがあるのも問題だ)、しかも他人に触れられたくないところを、その権利の無い人物から、そして自分はそれを黙って聞く義務も無いというのに、宣告されてカンカンに怒っていることだろう。

私には行くべき別荘などまったくなかったし、またいかなければならない理由もなかった。私はどの荷馬車とでも一緒に行きかねない気持ちだった。辻馬車を雇っている立派な風采のどの紳士とでも一緒に、そのまま行ってしまいかねない気持ちだった。だが一人として、まったく誰一人として、一緒に行こうと言ってくれるものはいなかった、まるで私のことなどは忘れているように、彼らにとって私などはそれこそ赤の他人ででもあるかのように!
(P11より引用)

10年ほど前、卒業旅行をかねて英国に2週間ほど行って来た。現地の短期英語学校では日本人やドイツ人やホームステイ先の息子や姉と、またその友達と仲良くなって、更にその友達の友達まで紹介されて、飲んだり、スヌーカー(ビリヤードみたいなもの)をして遊んだのだが、自分一人になるととてもたまらない気持ちになった。そんなときには一人で街中を当てもなくぶらぶらし、字幕も無いのでほとんど分からない映画を観るために映画館に入ったり、同じ道を8の字よろしく永久ループにはまったかのようにグルグルと回ったりしたのだが、それが余計にわびしさを増幅させた(あたりまえだ)。そのとき辻馬車に誘われたら、おそらく自分も飛び乗っていたことだろう。

私は歩きながら歌を口ずさんでいた。というのは、自分が幸福な気分のときには、親しい友もなければ親切な知人もなく、嬉しいときにもその喜びをわかつ相手のいない幸福な人間が誰しもするように、小さな声で歌っていた。
(P13より引用)

喜びを歌で表すのはいかにも気恥ずかしいことだが、その気持ちはとてもよく分かる。少年の壊れやすい心を忘れずに取っておいた彼だからこそ出来る表現だと思う。

そしてしばらく間をおいて、またもやつづくすすり泣きの声。これはなんとしたことだ?私は胸がギュッとしめつけられるような気がした。私は女性に対して臆病なほうであったが、なにぶんにも時刻が時刻である!…。私は引きかえして彼女のそばへ歩みより「お嬢さん!」と声をかけようとした ――もしもこの呼びかけの言葉がロシアの上流社会をえがいたあらゆる小説のなかで、すでに数千回も繰り返されたものであることを知らなかったら、必ずそれを口にしたに違いない。
(P14より引用)

言葉を飾らずにはおれないドストエフスキーらしい表現である。憧れてしまう。
先に自分は分析するのが好きといったが、数値計算を含めてシミュレートするのも大好きである。つまり、空想するのが好きなわけだが、空想の中で相手との会話を楽しんでしまう(変態という一言で片付けてもらっても構いませんがね)。
いろいろな前提条件を設定し、環境要因や特殊要因を考慮してシミュレートするわけだが、どうかすると5分の会話のために1時間以上もシミュレートしてしまうことがある(場合分けも含めて)。自分の名誉のために付け加えておくが、「相手がああいったらこう言おう」とか「自分がこういったら、相手はああいうだろう」とかで構成していく、頭の悪い人間が行うシミュレートは行っていない(そういうのは成り行きに任せる他無く、人知の及ぶところではない。時間の無駄だ)。
となると、僅か5分ではとても伝えきれない内容となってしまい、エッセンスだけを伝えることになってしまうのだが、それでは論理構成がむちゃくちゃになってしまう。
結局、論理性を殺してまでして伝えることには抵抗を覚え、だったらと伝えなかったりするわけで、かくして自分は口下手で、物静かな(何を考えているのか良く分からない)人間となってしまうのである。女性に対してというよりも、他人に対してではあるが、そのほうが始末が悪い!

「とにかく嘘じゃありません、女性は一人も、それこそ一人も、ぜんぜん知らないんです!まったく付き合ったことがないんですよ!そしてただ毎日、やがていずれは誰かに会うに違いないと、そればかりを夢に描いているんです。ああ、あなたはご存じないでしょうが、ぼくはそれこそ何度今までにそんなふうに恋をしたか知れやしません!…」
「というと、誰にですの?…」
「なに相手なんかいやしません、理想の女性に、夢に現れる女性にですよ、僕は空想の中で無数の小説を創作するんです。」
(P18より引用)

自分は夢想化で、結婚していなければ、仕事をしているか夢想しているか常に何れかの状態にしか身を置かなかったことだろう。

「ねえ、あなたはいったいどういうお方なんですの?さあ早く―― おはじめになって、身の上話をお聞かせくださいな」
「身の上話!」と私はびっくりして叫んだ。「身の上話ですって!いったい誰がそんなことを言ったんです、僕に身の上話があるなんて?僕には身の上話なんかありゃしませんよ…」
(P28より引用)

誰かが言わなきゃ自分に身の上話があるなどと思いもすまいと言わんばかりの表現で、自虐に快楽を求めるところが共感を呼ぶ。今でこそまともな人間になりかけているが、昔の自暴自棄な自分を思うと、見過ごさずにはいられない表現である。

「しかし失礼ですが、僕はまだあなたのお名前をうかがっていませんでしたね?」
「まあ、いまごろになって!ずいぶん早く気がおつきになったこと!」
「ほんとに、なんてことだ!てんでそんなことには気づきもしなかった、それでなくてもあんまりいい気持ちだったもので…」
「あたしの名前はね――ナースチェンカですわ」
「ナースチェンカ!それだけですか?」
「それだけかですって!それだけじゃ不足だとでもおっしゃるの、まあ、なんてあなたは欲深なんでしょう!」
「不足ですって?いや十分です、十分です、それどころか、十分すぎるくらい十分ですよ。ナースチェンカ、あなたがぼくのためにいきなりただのナースチェンカになってくださったところをみると、あなたはじつに心のやさしい娘さんにちがいありませんね!」
「ほらごらんなさい!それで!」

(P31より引用)

現代はどうか知らないが、彼の目を通したロシア娘の繊細で、純情で、しかも強さを持ったところがとても好きである。

「なぜこのこっけいな紳士は、数すくない知人の誰かがやってくると(結局はその知人もぜんぶいなくなってしまうんですがね)なんだってこの滑稽な男はひどくどぎまぎして顔色まで変え、すっかり取り乱してしまうんでしょう?まるでたったいまこの四つ壁のなかで犯罪でもおかしたか、贋造紙幣でもつくっていたか、それでなければ、この詩の作者はすでに死んでしまったが、遺稿を発表することは親友として神聖な義務であると思うと書いてある匿名の手紙を添えて、雑誌に送るために妙な詩でも書いていたような狼狽ぶりなんですからね。」
(P33より引用)

狼狽する青年を見事に描写するドストエフスキーだが、こうした表現は他の作品にも随所に見られる。夢想の邪魔をされ、ひどく怒りっぽく、しかしながらどぎまぎしながら相手の機嫌を損なわないよう努力する(しかしそれも必ず失敗に終わるが)姿は、特に身に覚えがなくとも懐かしい気持ちに襲われる。

「ああ、ナースチェンカ、ぼくは自分が言葉を飾って話していることを知っています。しかし――失礼ですが、ぼくにはこれより他の話し方は出来ないんですよ。いまのぼくは、ねえ、ナースチェンカ、いまのぼくは七つの封印をほどこされて、千年ものあいだ箱の中に閉じこめられていて、やっとのことでその七つの封印を取り除かれたソロモン王の霊みたいなもんですからね。」
(P37より引用)

『失礼ですが』。この言葉がこうした使い方をされることを望んでいるのかどうかは分からないが、何でもかんでも『失礼』と言いまわる日本人より、よほど謙虚な使い方だと思う。

「じゃ本当にあなたはそんなふうにいままでずっと暮らしていらっしゃったの?」
「ええ、いままでずっとね、ナースチェンカ」と私は答えた。「いままでずっと、そしてどうやら、これからもそれで押し通すらしい!」
(P48より引用)

これも最高に自虐的で、思わずニヤリとしてしまう表現である。

「あたしの身の上話の半分はあなたはもうご存じですわね、つまりあたしに年とったお祖母さんがあるってことはご存じでしょう…」
「もしも後の半分もそれくらい短いものだったら、それは…」と私は笑って相手をさえぎろうとした。
(P54より引用)

彼らは(あるいはドストエフスキーという人物は)、半分とか第一にとかいった表現を、じつに皮肉った使い方をすることが多い。まるで論理的に思考していないかのような使い方が時々見られるのだが、おそらく論理的思考家に対する皮肉なのだろう。

「ねえ、ナースチェンカ!」と私は叫んだ。「あなたは知っていますか、今日いちにちぼくにどんなことがあったか?」
「まあ、なにが、どんなことがありましたの?早く聞かせてちょうだいな?どうしていままで黙っていらしたの?」
「まず第一にですね、ナースチェンカ、あなたから頼まれたことをすっかりすまし、手紙もわたし、あなたの言う親切な人の家にもよってから、それから …それからぼくは家へ帰って、ベッドにはいったというわけなんです」
「たったそれだけ?」と彼女は笑ってさえぎった。
「まあ、だいたいそれだけなんですがね」と私は苦しい気持ちを抑えて答えた。
(P80より引用)

ナースチェンカに頼まれた親切な人の家に手紙を届けるという行為を三つに分割し、いろいろしてきたかのように表現するところが面白おかしい。しかし、それは「たったそれだけ」なのである。

「これからあたしがお話しするのはあの人のことじゃなくて、一般的なことなんですけれど、もうずっと前からしょっちゅう頭に浮かんでいたことなんですの。あのねえ、いったいどうしてあたしたちはみんなお互いに、兄妹同士みたいにしていられないんでしょう?どんなにいい人でも、いつもなんだか隠し事でもあるみたいに、決してそれを口にださないのはどういうわけなんでしょう。相手に向かってちゃんと喋っているんだと知っていたら、なぜすぐに、ざっくばらんに言ってしまわないのでしょうね?これじゃまるで誰でも実際の自分よりすこしでも堅苦しく見せかけようとしてるみたいじゃありませんの、すぐになんでも思ってることを言ってしまったら、自分の感情をはずかしめることになりはしまいかと、みんなでびくびくしてるみたいじゃありませんの…」
「さあ、ナースチェンカ!確かにあなたのおっしゃるとおりです。しかしそれはいろいろな理由があってそうなるもんでしてね」と私はさえぎった。そのくせその瞬間の私は、ほかのいかなる瞬間にもまして自分の感情を押し殺していたのである。
(P85より引用)

ここは、おそらくドストエフスキーの主題であろう。男女が兄妹同士のように話し合えたらという希望と、それが無理な相談であるとした諦めとが見事に表現されている。最後の表現にはドキッとさせられる。自分は裏表のない人間として筋を通すことを信条としているが、果たして感情を押し殺したことがなかったか。いや、感情を押し殺したことなどあまたある。それは裏表のある人間につながるのではないのだろうか。しかし、感情を抑えなかったら、それこそ身の破滅だ。

それとも思いがけなく黒雲のかげからちょっと顔をのぞかせた太陽の光線が、またもや雨雲のかげに隠れてしまったので、眼の前のあらゆるものがふたたび色つやを失ってしまったのだろうか。いや、もしかすると、私の眼の前に物悲しくもよそよそしい私の未来の生活の一齣が、そっくりそのままチラリとひらめきすぎたのかも知れない。そして私は、きっかり十五年後の、すっかり年をとった私が、同じこの部屋で、やはり一人ぼっちで、こながの年月にもすこしも利口にならないマトリョーナと二人で、相変わらず淋しく暮らしているいまと同じ自分の姿を見たのかも知れないのだ。
(P114より引用)

青年の人生が静かに終わりを告げたことを物語っている。残された長い長い時間は、彼の人生において何の意味も生み出さない。

ああ!至上の法悦の完全なひととき!人間の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか?…。
(P114より引用)

しかし、その一瞬こそ彼の生きた証であり、彼の人生そのものといえることだろう。

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