子宝どっとこむ

 

 罪と罰

1866年(45歳)の作品
お勧め度☆☆☆☆☆
出展:新潮文庫、工藤精一郎訳

ようやく「罪と罰」を読み返すことが出来るときが来た。そして、「罪と罰」を語るときが訪れたのだ!ドストエフスキーを語る企画を考えたのだが、「罪と罰」を語るためにこの企画を立てたといっても過言ではない。これまでの一月ばかりは「罪と罰」を語るために周到に用意されたプロローグでしかない。ようやくそのときが、つまり、機が熟したのである。これほどの幸福はめったにない。
「罪と罰」を読むのは、かれこれこれで四度目になると思う。しかし、四度目の今回でも、とても新鮮で、最高にわくわくする、完璧といってよい素晴らしい作品を読み返せた喜び以外に何も感じない。まったく完璧である。微塵の不満も無い。
それは、一つは自分の記憶力の無さに、そしてもう一つは自分の注意力の無さに起因した感動かもしれない。しかし、そんなことはどうでも良い。「罪と罰」は良いのだ。誰にも文句は言わせない。
四度目の今回は、とても素晴らしい発見があった。四度目だからできる発見であり、プロローグがあって初めて分かる発見であった。「罪と罰」は読者を異常に引き込む力がある。夢中になって頁をめくらせる力がある。何よりも展開が良い。構成が良い。心理描写が良い。その術中にはまり込むと見えにくいものが一層見えなくなる。つまり、ドストエフスキーの意図だとか、自分の知識では理解に苦しむ当時の状況や心理状態など、知らない英単語を読み飛ばして趣旨を理解して満足してしまう状況に似た、見落とした宝箱がごろごろしている。
自分は少し興奮しすぎたようだ。読み返しても何が言いたいのかさっぱり分からない。しかし敢えてこのままにしておこう。これこそ感動の表現というものだ。

「その女がよ、朝っぱらにおれんとこへ来やがったんだよ」と年上のほうが若いほうに言った。「とてつもなく早くさ、すっかりおめかししてよ。《おい、いやになれなれしいじゃないか、何だっておれにそうべたつくんだい?》と言ってやったら、言い草がいいじゃないか。《ねえ、チート・ワシーリエヴィチ、今日からあたし、あんたの思いのままになりたいのよ》だってさ。とまあ、こういうわけよ!そのめかしっ振りったら、まったく、ジャーナルだよ。ジャーナルそっくりなのさ!」
「なんだいそれぁ、兄貴、そのジャーナルってさ?」と若い方が聞いた。彼はどうやら《兄貴》にいろいろと仕込まれているらしい。
「ジャーナルか、それはな、おめえ、きれいな色の付いた絵のことよ。土曜日ごとに、郵便でさ、外国からここの仕立て屋に送られて来るんだ。つまりだな、誰がどんな服を着たらいいか、男のおしゃれはどうするか、女のおしゃれはどうするかってことが、書いてあるのさ。まあ、スケッチみたいなもんだ。男のほうはたいていすその長い外套を着ているが、女のほうときたら、おめえ、その豪勢な衣装ったら、おめえの全財産をはたいても、とても買えるしろものじゃねえよ!」
「まったくこのピーテル(訳注:ペテルブルグ)にゃ無いってものがねえんだなあ!」と若い方が嬉しそうに目を輝かせて叫んだ。「親父とお袋のほかは、何でもあるよ!」
(上巻P298より引用)

なぜ、これを引用したのか。どうしてここから引用を開始しなければならないのか。自分でも理解に苦しむ。
マルメラードフとカテリーナ・イワーノヴナの衝撃的な登場は要らないのか、老婆アリョーナ・イワーノヴナとの対決はどこへ行ってしまったのだ、そして何よりもラスコーリニコフの心理描写は、それこそ中心的課題ではないか。
これらを引用できないわけは、ひとえに引用にむかないためである。引用するには長すぎる。布石があちこちにちりばめられている。物語は完成しているのだ。それを壊す勇気は、断片化させる勇気は、自分には無い。
それではどうしてここを引用したかというと、一つは今も言ったように断片化できるからであり、《兄貴》の兄貴面や《若い方》の自分に手に入れられないものでもそれがそこにあるというだけで嬉しそうに目を輝かせるさまに心が和んだのと、《親父とお袋のほかは、何でもあるよ!》に意味深長な意図を感じさせられたためである。
どんな意図か、それは読めば分かるしそれを解説するのは野暮というものである。
が、読まない人のために敢えて付け加えると、ロシアの民にとって《親父》と《お袋》は神聖で絶対な存在であり、何物にも代えがたい存在であり、且つ抽象的な存在でさえあって、したがって、《親父》と《お袋》が無いのであれば、その他に何があろうと何もないのと代わりが無い、いや、むしろそれよりひどいということにつながるのである。

「なに?」とラスコーリニコフは目が覚めたように問い返した。「ああ…なに、その男を家へ運び込むのを手伝ったとき、血が付いたのさ…そのことですが、お母さん、ぼくは昨日実に申し訳ないことをしてしまったんです。たしかに頭がどうかしていました。ぼくは昨日、お母さんが送ってくだすったお金をすっかり、やってしまったんです…その男の妻に…葬式の費用にって。夫に死なれて、肺病で、あんまりかわいそうなんです…子供が三人、食べるものもなく…家の中は空っぽで…もう一人娘がいますが…きっと、あんな様子を見たら、お母さんだってお金をやったでしょう…でもぼくには、あんなことをする権利は全然なかったんです、だって、はっきり言いますが、あのお金はお母さんがどんな苦しい思いをしておつくりになった金か、ぼくはちゃんと知ってるんですもの。人を助けるには、まずその権利を作らなきゃいけないんです、さもないとフランスのことわざに言うCrevez, Chiens, si vous n'etes pas contents! (腹が減ったら犬でも殺せ)てことになりますよ」彼はにやりと笑った。「そうだろう、ドゥーニャ?」
「いいえ、ちがいますわ」とドゥーニャはきっぱりと答えた。
「え!じゃおまえも…そうなのか!…」と彼はほとんど憎悪に近い目で彼女をにらみ、あざけりの薄笑いを浮かべながら呟いた。「おれはそれを考慮に入れるべきだったのさ…まあ、立派だよ、お前はそのほうがよかろうさ… だが、何れはある一線に行き付く、それを踏み越えなければ…不幸になるだろうし、踏み越えれば…もっと不幸になるかもしれん…でもまあ、こんなことはくだらんよ!」
(上巻P393より引用)

ここははっきり言ってラスコーリニコフの言ってる意味が理解できない。心理は理解できる。しかしそれで満足していいのだろうか。
《おまえも…そうなのか!》は慈悲を施すには権利など必要ないしそもそも無関係であるという考え方をドゥーニャも持っていることを知って(おそらく予想していたが)、憎悪を覚えたのだろう。しかし奇麗事を言ってられないぎりぎりの境地に立ったとき、果たしてお前は迷うことも苦悩することもないかな?という、妹をさげずんだ心理が見え隠れする。
しかし、果たしてこの解釈でよいのだろうか?狂気じみたラスコーリニコフを解釈するには四度の読み返しではまだ足りないのかもしれない。

「なんのために?それがぼくにも分からないんです。だがぼくにはありのままの事実を語ったということ、それは確かです!あなたは実に汚らわしい、罪深い男だ。ぼくは決して間違っていません、その証拠にあの時すぐに、つまりぼくがあなたに感謝して、あなたの手を握り締めたあのときにですね、このことについて一つの疑問が頭に浮かんだのを、はっきり覚えているんです。一体何のためにあなたが彼女のポケットにそっと忍ばせたのか?つまり、どうしてそっとでなければいけないのか?ぼくが反対の信念を持ち、社会悪の根を少しも摘み取ることの出来ない個人的慈善を否定することを知っているから、ぼくに隠そうとした、ただそれだけのことだろうか?そう考えてきて、ぼくはあなたはこんな大金をやるのがほんとにぼくに恥ずかしいのだろう、と解釈したわけです。さらに、ひょっとしたら、思いがけぬ贈り物をして、家へ帰ってからポケットに百ルーブリも入っているのを見て、びっくりさせてやろうと思ったのかもしれない、とも考えてみました(ぼくも知ってますが、慈善家の中にはこんなふうに自分の善行を粉飾するのがひどく好きな連中がいるものです)。さらに、あなたは彼女を試そうとした、つまり彼女がそれを見つけて、お礼を言いに来るかどうかを見ようとしたのかもしれない、とも考えました。あるいはまた、お礼を言われるのを避けたいのかもしれない、その、いわゆる右手にもしらむべからず、というわけでね… 要するに、まあいろいろ考えてみましたよ…ほんとに、あのときは次々といろんな考えが浮かんでくるので、後でゆっくりそれらを検討してみることにしたんですが、それでもやはり、この秘密を知っていることをあなたに打ち明けるのは、慎みがなさ過ぎると思いました。しかしそう思う裏から、すぐに、ソーフィヤ・セミョーノヴナが、気が付く前に、運悪く金を紛失しないとも限らない、という不安が沸いたのです。それでぼくはここへ来て、彼女を呼び出し、ポケットに百ルーブリ紙幣を入れられたことを教えてやることに決めました。その前にちょっとコブイリャトニコーワ婦人の部屋に立ち寄って、《実証的方法論概説》を渡し、特にピデリットの論文(ワグネルのものですが)を読むように薦めて、それからここへ来たわけですが、来てみるとこの騒ぎです!いいですか、あなたが彼女のポケットに百ルーブリ紙幣を入れたのを、ぼくが実際に見ていなかったら、ですよ、ぼくはこうした全ての推論や考察を持つことができたでしょうか、できたでしょうか?」
アンドレイ・セミョーノヴィチは長い考察を述べ終わり、いかにも明快な論理的結論で言葉を結ぶと、がっくり疲れて、顔には大粒の汗さえ噴き出した。かわいそうに、彼はロシア語でさえ満足に説明ができなかったのである(もっとも、他の言葉は何も知らないが)。それで彼はこの弁護士としての功績を果たした後は、一時にすっかり消耗してしまって、急にげっそり痩せたようにさえ見えた。
(下巻P220より引用)

『白夜』のコメントで述べたように、自分もこのように考察するのが好きである。考察せずにはいられないといってもよい。それはシミュレートであったり、違う形をとったりするのだが、考察して論理的結論を導くのがとても楽しくて仕方がない。 アンドレイ・セミョーノヴィチの考察の事実という証拠によって、ソーニャが百ルーブリをくすねたという嫌疑が晴れたわけだが、考察が証拠になるという思いがけない展開と、考察の妙味を味わい深く表現しているところが気に入って長々と引用してしまった。

「ぼくたちは別々な人間だ…ねえ、ソーニャ、ぼくは今になって初めて、いまやっとわかったんだよ、昨日きみをどこへ連れて行こうとしたのか?昨日、君を誘ったときは、まだ自分でもどこへ行くのか分からなかった。きみに見捨てられたくない、ただその一心できみを誘い、ただその一心でここへ来たんだ。ぼくを見捨てないでね、ソーニャ?」
ソーニャはラスコーリニコフの手を強く握り締めた。
「でも、何のためにおれは、何のためにこの女に言ったんだ、何のためにこの女に打ち明けたんだ!」一分ほどすると、限りない苦悩にぬれた目で彼女を見守りながら、彼は絶望的に叫んだ。「今きみは、ぼくの説明を待っているんだね、ソーニャ、じっと座って、待っているんだね、ぼくにはそれが分かるよ、だが、ぼくは何を言ったらいいんだ?説明したって、君には何も分かるまい、ただ苦しむだけだ、苦しみぬくだけだ…ぼくのために!ほら、君は泣いてるね、まだぼくを抱きしめてくれる。――ねえ、きみはどうしてぼくを抱きしめてくれるんだ?ぼくが一人で耐え切れないで、《きみに苦しんでくれ、そうすればぼくも楽になる!》なんて虫のいいことを考えて、苦しみを分かつために来たからか。え、きみはそんな卑劣な男を愛せるのか?」
「だって、あなただって苦しんでるじゃありませんか?」とソーニャは叫んだ。
またあの感情が波のように押し寄せて、また彼の心を一瞬和らげた。
「ソーニャ、ぼくはずるい心があるんだよ。それを頭においてごらん、いろいろなことがそれで分かるから。ぼくがここへ来たのも、ずるいからだよ。こうなっても、来ない人々だっているよ。だがぼくは臆病で…卑怯な男なんだ!でも…そんなことはどうでもいい!そんなことじゃないんだ…話さなくちゃならんのだが、うまく言い出せない…」
(下巻P247より引用)

彼の苦悩が伝わってくる。しかしその苦悩とは一体何なのか。真にそれを理解するにはロシア正教徒に改宗しなければ不可能なのかもしれない。 己の弱さを認め、そこに甘んじることが卑怯であろうか。確かに卑怯と言う者もいよう。彼の思想の立場にたてば、己を許すことなど、甘やかすことなど、できるはずがない。自分自身について、完全に自分ひとりで責任を取る必要がある、自分のまいた種は自分でけりをつけねばならない、それに耐えられない自分を卑怯とののしっているわけだが、果たして耐えられる者などいるのだろうか?

「いや、ソーニャ、あれはそうじゃないんだよ!」と彼は、自分でも思いがけぬ考えの変化に驚いて、また心が高ぶってきたように、急に顔を上げて、またしゃべりだした。
「そうじゃないんだよ!それよりも…こう考えてごらん。(そうだ!確かにそのほうがいい!)つまり、ぼくという男はうぬぼれが強く、妬み深く、根性がねじけて、卑怯で、執念深く、その上…さらに、発狂の恐れがある。まあそう考えるんだね。(もうこうなったらかまうものか、ひとおもいにすっかりぶちまけてやれ!発狂のことは前にも噂になっていた、おれは気付いていたんだ!)さっき、学資がつづかなかったって、きみに言ったね。ところが、やってゆけたかもしれないんだよ。大学に納める金は、母が送ってくれたろうし、はくものや、着るものや、パン代くらいは、ぼくが自分で稼げただろうからね。ほんとだよ!家庭教師に行けば、一回で五十コペイカになったんだ。ラズミーヒンだってやっている!それをぼくは、意地になって、やろうとしなかったんだ。たしかに意地になっていた。(これはうまい表現だ!)そしてぼくは、まるで蜘蛛みたいに、自分の巣に隠れてしまった。君はぼくの穴ぐらへ来たから、見ただろう… ねえ、ソーニャ、君にも分かるだろうけど、低い天井と狭い部屋は魂と頭脳を圧迫するものだよ!ああ、ぼくはどんなにあの穴ぐらを憎んだことか!でもやっぱり、出る気にはなれなかった。わざと出ようとしなかったんだ!何日も何日も外へ出なかった、働きたくなかった、食う気さえ起きなかった、ただ寝てばかりいた。ナスターシヤが持ってきてくれれば――食うし、持ってきてくれなければ――そのまま一日中寝ている。わざと意地を張って頼みもしなかった!夜は明かりがないから、暗闇の中に寝ている、ろうそくを買う金を稼ごうともしない。勉強をしなければならないのに、本は売り飛ばしてしまった。机の上は原稿にもノートにも、今じゃ埃が一センチほども積もっている。ぼくはむしろ寝転がって、考えているほうが好きだった。どんなって、言ってもしようがないよ!ところが、その頃からようやくぼくの頭にちらつきだしたんだ、その…いや、そうじゃない!ぼくはまたでたらめを言い出した!実はね、その頃ぼくは絶えず自分に尋ねていたんだ、どうしてぼくはこんなに馬鹿なんだろう、もし他の人々が馬鹿で、その馬鹿なことがはっきり分かっていたら、どうして自分だけでももっと利口になろうとしないのだ?そのうちぼくはね、ソーニャ、みんなが利口になるのを待っていたら、いつのことになるか分からない、ということが分かったんだ…それから更にぼくは悟った、絶対にそんなことにはなりっこない、人間は変わるものじゃないし、誰も人間を作り変えることはできない、そんなことに労力を費やすのは無駄なことだ、とね。そう、それはそうだよ!… それでぼくは分かったんだ、頭脳と精神の強固なものが、彼らの上に立つ支配者となる!多くのことを実行する勇気のあるものが、彼らの間では正しい人間なのだ。より多くのものを蔑視することのできる者が、彼らの立法者であり、誰よりも実行力のあるものが、誰よりも正しいのだ!これまでもそうだったし、これからもそうなのだ!それが見えないのは盲者だけだ!」
(下巻P251より引用)

ここは、自分の考え、感情を表せばおそらくこういう表現にもなりえようと思ったため、自己の代弁として引用することに決め、そっと頁を折って印をつけたのだ。

「いや、話さなかった…言葉では。でも、母さんはいろいろと悟っていたよ。夜お前がうなされているのを、聞いたんだよ。もう大体は分かっていると思うよ。寄ったのは、まずかったかもしれない。まったく、何のために寄ったかさえ、ぼくには分からないんだよ。ぼくは下劣な人間だよ、ドゥーニャ」
「下劣な人間、だって苦しみを受けようとしてるじゃありませんか!ほんとに、行くのね?」
「行くよ。今すぐ。ぼくはこの恥辱を逃れるために、川へ身を投げようとしたんだよ、ドゥーニャ、だが橋の上に立って水を見たときに、考えたんだ、今まで自分を強い人間と考えていたのじゃないか、今恥辱を恐れてどうする」と彼は先回りをして、言った。「これが誇りというものだろうな、ドゥーニャ?」
「誇りだわ、ロージャ」
彼のどんよりした目に一瞬火花がきらめいたようだった。まだ誇りがあることが、嬉しくなったらしい。
「水を見て怖気づいただけさ、なんて思わないだろうね、ドゥーニャ?」と彼は醜い薄笑いを浮かべて、彼女の顔を覗きこみながら、尋ねた。
「おお、ロージャ、よして!」とドゥーニャは悲しそうに叫んだ。
(下巻P433より引用)

ラスコーリニコフに残された選択肢は、自殺をするか、さもなければ外国へ逃亡するかだ(しかしその金は無い)とスヴィドリガイロフに告げられて、怯え、長い時間の経過によってすっかりあきらめの境地に立とうとしていたドゥーニャは、《水を見て怖気づいただけさ、なんて思わないだろうね》という彼の言葉で、彼の自尊心が彼を苦しみぬいていることを悟ったはずだ(そんなことはもうすっかり分かっていたけれど、まるで動かしようの無い事実を突きつけられたかのような言葉によって)。だから《おお》なのである。 ところで、四度目にして強くその重要性、存在意義を感じたスヴィドリガイロフについて何も引用しないで終わろうとしている。そこで彼については、ここで少しコメントしようと思う。 評論家の間では、彼は絶望的ニヒリストという位置づけとなっている。このことを自分はよく理解できなかった。また、何故彼があのような行動、思考をとらなければならないのかとんと合点がいかなかった。しかし、今回、彼の《自分は終わってしまった人間である》という表現が鍵になっているのではないかと感じた(あれ、これはポルフィーリイ・ペトローヴィチの言葉だったっけ?そういえばポルフィーリイ・ペトローヴィチについても何も引用せずに終わりそうだぞ。いや、そんなことは今はどうでもいい。それにこの言葉がポルフィーリイの言葉であろうとなかろうと、そんなことはどっちだっていいのだ。ちぇっ、また自分の記憶力の無さを露呈してしまった。確かにポルフィーリイも終わった人間かもしれないが、スヴィドリガイロフこそ終わった人間なのさ。だから彼の言葉にしてしまったって別に構わないではないか)。 老いとその自覚、それこそがニヒリストを生み出す源であり、無信仰がそれに拍車をかける。となると現代、とりわけ日本の現代はニヒリストのるつぼとなってしまうが、そうでないとも言い切れまい。

「これが、つまり十字架を背負うということのシンボルか、へ!へ!まるでこれまでぼくが苦しみ足りなかったみたいだ!糸杉の十字架、つまり民衆の十字架か。銅の――それがリザヴェータのか、君が自分でかけるんだね、 ――どれ、見せてごらん?じゃああの女はこれをかけていたのか…あのとき?ぼくはこれと同じような二つの十字架を知ってるよ、銀のとちっちゃな聖像だった。あのとき老婆の胸の上に捨ててきたんだ。うん、そう言えば、あれを今、そうだ、あれを今つけりゃいいんだ…それはそうと、ばかなことばかりしゃべって、用件を忘れている。どうも気が散っていかん!… 実はね、ソーニャ、――ぼくは、君に知っておいてもらおうと思って、わざわざ寄ったんだよ…なに、それだけさ…それで寄っただけなんだ(フム、しかし、もっと話すことがあったような気がしたが)、だってきみは自分で勧めたじゃないか、自首しろって、だから今からぼくが監獄に入り、きみの願いがかなえられるって訳だよ。一体どうしてきみは泣いているんだ?きみまで?よしてくれ、もういいよ。ああ、こういうことがぼくにはたまらなく辛いんだ!」
しかし、不憫に思う気持ちが彼の中に生まれた。ソーニャを見ていると、彼は胸がつまった。《この女が、この女が、何を?》と彼は密かに考えた。《おれがこの女の何なのだろう?この女はどうして泣いているのだ、どうしておれの世話をするのだ、母かドゥーニャみたいに?おれのいい乳母になるだろうよ!》
「十字をお切りになって、せめて一度でもいいからお祈りになって」とソーニャはおどおどした震え声で頼んだ。
「ああ、いいとも、何度でもきみのいいだけ祈るよ!素直な心で祈るよ、ソーニャ、素直な心で…」
彼は、しかし、何か別なことを言いたかった。
彼は何度か十字を切った。
(下巻P443より引用)

この後しばらくしてエピローグが用意されている。この物語が完成しているのはエピローグの存在によると自分は考える。確かにラスコーリニコフ、ソーニャ、ドゥーニャ、母プリヘーリヤ、ラズミーヒン、ルージン、マルメラードフ、カテリーナ、スヴィドリガイロフ、ポルフィーリイといった数々の主要な人物を余すところ無く描写しているところなど完璧と言っていいが、エピローグによって、新たな物語の始まりを予感させたところにこそ、この物語の完成度の全てがあるように思える。 これまでの彼の作品は暗い結末で終わる。後味悪く後ろめたさが残る。それは彼が現実を逃避した口先だけの希望を安易に認めないし与えないという強い信念に基づいていたのであろう。もちろん物語がこれで終わりではないことを暗示して終わっている作品もかなりある。しかし、それらの話を打ち切ったのは、話すべきほどの物語ではないことを彼が知っていたからであり、それは読者にも伝わった。主人公は終わってしまった(肉体は滅びなくとも)。だから話も終わってしまったのだ。しかし、ここでは彼は希望を与えた、エピローグによって。それはラスコーリニコフが苦悩を十分に受け、十字架を背負いきったご褒美であろう(ナウシカのように)。ご褒美という気持ちはおそらく無かったと思うが、しかしそれに近いある種の満足がエピローグを書かせたのであろう。

四度目の「罪と罰」までは、なぜドストエフスキーが「罪と罰」を書こうとしたのか、書かざるを得なかったのか、構想をずっと暖めていたことなど思いも及ばなかった。
しかし四度読んでみると、確かに「罪と罰」は彼の実体験に基づいており、決して空想によってひょっこり出来上がった小説ではないことを知る。ドストエフスキーが殺人を起こさなかったのは単に運がよかったに過ぎず、めぐり合わせであるとまで言える。
ペトラシェフスキー事件前夜の彼の思考は、ラスコーリニコフに近い、自分自身でさえ自分が信じられないほどに極度の精神分裂状態にあったのではないかと思える。彼にはソーニャやドゥーニャはおらず、母も幼い時分に無くしてしまった事を考えると確かに空想ではあるが、当時彼の頭の中にはそうした人物が存在していたのであり、そういう意味では実体験と表現しても構わないのではないか。なによりも、彼は人間の心理描写こそリアリズムであると考えていたではないか。であればなおさらであろう。

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