子宝どっとこむ

 

 永遠の夫

1870年(49歳)の作品
お勧め度☆
出展:新潮文庫、千種 堅訳

「永遠の夫」はどうにも印象が薄く、一読したことがあるなどというのが信じられないぐらいである。買ったけれども読まなかったのではないかとさえ思える。今回読み返してみて、やはりほとんど初めて読んだような気持ちだった。
また、読み進めていくうちに何が主題かが分からなくなり、あとでどれを引用したものか困ったことになりそうだぞと思いながら、遂には読み終えてしまった。
しかし読み終えて安心した。
訳者が全てを解説してくれていたのだ。私の出る幕など一つも無かった。そしてこの解説にのみ読んだ記憶を認めたのだ。解説に対する解説もおかしいし、千種氏の解説はわたしの言いたかったことを全て言ってのけていらっしゃるので以下に引用して終えることにする。

ドストエフスキーの『永遠の夫』と聞けば、ロシアの大文豪の「永遠の夫」像とはどんなものであろうかと関心をそそられる読者があってもおかしくない。女性から見れば男性の理想像にほかならない「永遠の夫」を奥深い人生哲学と人間観照に根ざした天才ドストエフスキーがどのように把握し、描いているのか大いに興味をそそられるところである。あるいはその「怪物性」からどんなにか屈折した、心理的曲折に富んだ人間像が飛び出してくるだろうと多少の期待を抱きながら。
ところが実際に本書『永遠の夫』を読んでいるうちに、登場人物の屈折した心理描写はともかくとして、ドストエフスキーなりの「永遠の夫」像がはっきりしないのに歯がゆさを覚える読者も出てこよう。
もちろん「永遠の夫」が何であるかについてのくだりは無いわけではない。この作品でいう「永遠の夫」とは、男を取っかえひっかえしている淫乱な人妻の夫のことで、「生涯ただただ夫であることに終始」(本書4 妻、夫、愛人)し「ちょうど太陽が輝かずにはいられないように、妻に不貞をされずにはすまない」(同)そういう存在だという。
これでは「永遠の夫」という日本語の常識的な感覚から外れることおびただしく、いかにドストエフスキーが常識の枠を超えた巨大な存在とはいえ、素直には受け止められないところがある。
まあ、「永遠の夫」というタイトルに勝手な期待を持ったのがいけないといえば、それまでのことだが、とがめを受けるべきはやはり「永遠の夫」という日本語の訳語ではなかろうか。
ロシア語の書名はВечный муж、たしかに「永遠の夫」であり、ほかの外国語の訳語書名も日本語に訳せばこの通りの書名となっている。しかし、ロシア語の Вечныйという形容詞を使った表現を見ると、いわゆる「永遠の」という表現のほかに、「無期懲役」の「無期」とか、「万年筆」「万年候補」「万年雪」といった場合の「万年」にも使われている。
この線を押していけばВечный мужは何も「永遠の夫」というような取り澄ました訳語でなくてもいいことになる。たとえば、日本語としてはあまりなじまないのだが、「万年亭主」という訳語になっても、それほど見当違いではないだろう。
つまり、女房のほうは次々と愛人を替えて浮名を流しているのに、亭主のほうは浮気ひとつできず、いってみれば「亭主の座」にしがみつくしか能が無い。これすなわち「万年亭主」というわけである。
そうした前提に立って、この作品を読み直してみれば、妙に遠慮がちで正体不明な喪章をつけた人物も別に思わせぶりでもなんでもなくなり、読みすすむほどに、この人物こそが主人公の「万年亭主」だと納得して、興味津々たる話の運びに引きこまれて行くのである。
これが「永遠の夫」にこだわっていた日には、喪章の男トルソーツキイが主人公だと納得するのに暇がかかり、いや拒絶反応を起し、「永遠の夫」はどうでもヴェリチャーニノフでなくてはと決めてかかる破目になりかねない。そんな予断を持っていては、せっかくの名作の理解も中途半端に終わるだろう。
(P253訳者千種 堅氏解説より引用)

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