子宝どっとこむ

 

 スタヴローギンの告白

1872年(51歳)の作品
出展:新潮文庫「悪霊」、江川 卓訳

チホンはすばやく目を伏せた。
「この文章は、致命的な傷を受けた心の真の欲求から発したものです。そう理解してよろしいですかな?」彼は執拗な調子に異常な熱さえ込めて言った。「さよう、これは悔恨であり、あなたを打ちひしいだ自然な心の欲求なのです、そしてあなたは、これまで前人未踏の偉大な道に踏み込まれた。ところがあなたは、いまからもう、ここに書かれたことを読むであろう全ての人を憎悪し、軽蔑されて、その人たちに向かって挑戦状を叩きつけられておられる。罪を認めることを恥じられなかったあなたが、なぜ悔恨を恥じられるのです?」
「恥じているですって?」
「恥じ、恐れておられる!」
「恐れている?」
「ひどく恐れておられる。自分の事を見るが良い、とあなたは言われるが、あなた自身は、その人たちをどのような目でごらんになるのです?あなたの告白のある部分は文章の力で強められている。あなたご自身の心理にいわばうっとりされて、実際にはあなたのうちに存在しない非情さで読むものを驚かせようとしておられる。これをしも、罪人の裁き手に対する傲慢な挑戦と呼ばずして何と呼びます?」
…中略…
「ぼくは、もしかすると、あなたに対して自分の悪口を言いすぎたのかもしれない」スタヴローギンがもう一度念を押すように繰り返した。「自分でもまだ良く分からないが…もっとも、ぼくがこんな露骨な告白で世間の人に挑戦するからって、それがどうなんです、あなたが挑戦と取られたからだが。ぼくはその人たちに、ぼくをもっともっと憎ませてやるんです、それだけですよ。そうすれば、ぼくもいくらか気が楽になるでしょう」
「つまり、敵意があなたの中に対抗の敵意を生み出し、憎むことによって、その人たちから同情を受けるより、気が軽くなるというわけですか?」
「その通りです。いいですか」彼は突然笑い出した。「この文書を発表すると、ひょっとしたら、ぼくはジェスイットだ、信仰者面をした偽善者だと呼ばれるかもしれないな、は、は、は。そうじゃありませんか?」
(下巻P579より引用)

罪を認めることは恥じないが、認めたことを悔恨することを恥じるというのは容易に理解できる。罪を認めるとき、一種の恍惚感があいまって誇りに思えるほどの感覚に襲われることもままあることだが、認めたその瞬間から悔恨が始まり、悔恨自体を憎悪し、そうした己を恥じるわけだ。こうしたとき、憎悪は得てして読者への敵意へと転化させられる。

「私の問いに答えてください、ただ心から、私一人に、一人だけに、夜、自分自身に話すようにして」別人のような声でチホンが言った。「もし誰か、このことで(チホンは文書を指した)あなたを赦す者があったら、それも、あなたが尊敬し、恐れている人ではなく、見知らぬ人、あなたが決して行き会わぬだろう人が、この恐ろしい告白を黙って読み、心の中であなたを赦してくれるとしたら、あなたはそのように考えて心が軽くなられますかな、それとも、同じことですかな?まあ、自負心の強いあなたとしては答えにくいかも知らんが、だったら心の中で考えてみなさるだけでよい」
「軽くなります」スタヴローギンは小声で答えた。「もしあなたが赦してくだされば、もっとずっと軽くなるでしょうが」彼は目を伏せて、付け加えた。
…中略…
「準備ができておられない、鍛えられておられない」チホンは目を伏せて、おずおずとつぶやいた。「土壌から引き離されておられる。信じておられない」
「聞いてください、チホン神父。ぼくは自分で自分を赦したい。これがぼくの最大の目的、目的の全てなのです!」スタヴローギンは暗い歓喜の表情を目に浮かべて言った。
(下巻P581より引用)

自分で自分を赦すために告白文を書くというのは、試してみたことがあるが、自分の告白に自分が耐えられるかどうかを測ったり、自分自身の自己非難に堪えられなくなって告白に打って出たり、さまざまな理由、さまざまな効果が存在するのだが、得てして自己陶酔の域を出ず、告白内容も世間をあっと驚かすほどのものでもないので他人の目から見ればとても退屈な代物と映るかもしれない。 チホン神父のような人物や、どこかの知らない誰かが読んで赦してくれたとすれば、至福の極みであり、それをあてにして公開することもあろう。

 Trackback Pings(0)

No trackbacks found.

 Comments(0)

No comments found.

 Post a Comment

コメント用フィード