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 自分像を定義してみる

「自分は何者なのか」

自分自身を定義することに意義を挟む人も多くいると思います。なぜなら、自分自身を真に定義することはもちろんのこと、自分自身を知ることすら、おそらく不可能でしょうし、今現在の自分自身は固定的な存在ではなく、未来は変わりうるからです。

とはいえ、自分自身の定義を試みる行為自体には意義があることに同意してくださる方も多いと思っております。例えば、自分のなりたい姿を『自分自身の定義』とした場合、目指したいセルフイメージが明確となり、着実にそうした自分像に向かって歩みを進めることができます。おそらく目指したいセルフイメージを明確にした段階で、「ことは7割なったも同然」という状況かと思います。

また、過去の自分像を定義することも意義があると考えます。過去は事実の解釈です。したがって、様々に変えられるわけですから、「定義することは無意味」という帰結にも達しえますが、物事の流れを過去を基点に考えるということは、先人の知恵であり、流れを掴む上では、あるいは流れを変える上では、意義が高いと思うわけです。

となると、現在の自分像を定義することも意義があることは明白でしょう。過去の自分像、将来の自分像を明らかとし、現在の自分像が過去から将来に向けてつながったところに位置しているかどうか、それを検証することに役立つと思っています。

と、言葉遊びはこの辺りまでとして、私自身の自分像の定義を試みたいと思います。

過去の自分像
過去(あるいは過去と現在)の私を一言で言うと「ナルシシスト」となるわけですが、平たく言うと「哲学をはじめとして、いろいろなことを少しずつかじった、自惚れ屋さん」となります。どれもこれも役に立つほどには身についていない可能性が高いです。しかし、その可能性が理解できたことは、まだ救いの余地があると考えています。

現在の自分像
現在の自分像を定義することは、なかなか難しいことです。それは、将来の自分像が、まだ明確になっていないからかもしれません。しかし、私の感じるままを言葉にするとすれば、「ようやくのことで、永い眠りから覚めた獅子」となります。もしかしたら獅子ではなく、猫かもしれません。
とにかく、私は、いろいろなことに目を向けることができた、というか、いろいろなことに興味を持ち始めました。今は、雑念をなるべく捨てて、ひたすら吸収することに精力を注ぎたいと考えています。具体的には、いろんな人と話をし、いろんな書物を読み、インターネットを中心にいろんな情報に触れ、また、いろんなことにチャレンジしようと考えています。

将来の自分像
将来の自分像というのは、更に定義が難しいです。しかし、何とかして言葉にしてみますと、「役に立つ人間」ということになると思います。何の役に立つのか、どう役に立つのか、それはなかなか明言できません。経営者になるのか、政治家になるのか、宗教家になるのか、哲学者になるのか、今、これ以上明確にすることは、慎まなければならないと感じていますので、このあたりまでにしておきます。

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