子宝どっとこむ

 

 会社行事について

ジェームス・C・アベグレン氏の『日本の経営』の中で、非常に新鮮な驚きを持って知ったのは、50年前の日本企業において、大企業も中小企業も、当たり前のように会社内に神社か神棚が存在していたという事実です。

アベグレン氏の調査対象は主に大企業であったため、それらの企業には、敷地内に神社があったそうです。会社は祭りの日を休日として、社員は家族とともに全員参加で祭りを祝い、神社にて神主のお祓いを受けていたことが報告されています。そこでは、過去の一年の無事を感謝し、次の一年の無事を祈ったのでしょう。こうしたことが奇異ではなく、当たり前の文化として、日本に存在していたということが、私の興味を非常にとらえ、思わず何度も読み返してしまいました。

こうしたことは、他の驚くべき事実とともに、従業員と会社の関係が、単なる契約上の関係以上の非常に強い関係、『家族』という比喩を使いたくなる関係であったことを示しており、それがゆえに、経営者は社員に対して、法的な権利義務関係では理解できない『家長』的な責任感を感じていたのでしょう。

そうした日本の文化に畏敬の念を抱いていた矢先だっただけに、妻との会話の中で出てきた次の話題は非常に驚きをもって聞くこととなりました。

妻と、経営者の覚悟というものについて話をしていたところ、「東芝の運動会の紹介記事を読んだことを思い出した」と言うのです。それによると、東芝で毎年大運動会が開催されていたわけですが、筆者の方は、「当時、大運動会は社員の福利厚生のためにやっているという意識を持っていたけれど、家族も含めて全員参加で行なう機会というのは、会社が養っている人たちの規模というのを実際に目にする機会を用意して、経営幹部が「彼らを路頭に迷わすわけには行かない」という覚悟を高揚する日であって、実は社員の福利厚生以上に、経営幹部の覚悟のために行なわれていたと解釈することができるのではないか」という意見で、「無くなってしまったことはある意味で残念なことだった」と述べていたそうです。

お金もバカにならないし、無駄が多いし、いやいや参加している人もいるし、マンネリしていたしで、運動会を止めることとなったのは必然でもあるのですが、自分たちの養うべき従業員とその家族の数が、一体どれぐらいの規模なのかというのを、数字で確認するのと、実際に一堂に会してそのパワーを感じるのとでは全然違うものだというのは、自明の理でしょう。従って、今の経営者に覚悟が無い(薄れてしまった)というよく言われている意見も、うなずける話だと思います。

私も、子供のころ、父親が日立製作所の社員だったので、毎年の大運動会を楽しみにしていました。父親たちは、運動会の1ヶ月前ぐらいから、仕事そっちのけで毎晩夜遅くまで運動会の準備をしていたと聞いたことがあります。子供のころは、たくさんお菓子がもらえるし、みんな楽しそうなので、不思議な雰囲気の運動会が大好きでしたが、社会人になったころには、そうした『暢気な』風習を馬鹿にしていた嫌いがあり、少なくとも自分の入行した銀行に、そうした運動会が過去のものとなっていたことに喜んだのですが、『経営者の覚悟を高揚する機会』だったことを思うと、考えも変えさせられます。

だからといって、20年前の家族ぐるみの運動会の文化を取り戻そうとか、50年前の祭りの文化を取り戻そうとか言っても、既に価値観が変わってきてしまっていますので、そんなことが今の日本に受け入れられるはずがありません(そうした会社を作ることは可能でしょうが、日本中をそうした文化にすることは不可能です)。しかし、おそらく我々の血の中には、そうした家族ぐるみで団結することを、負担にならない程度であれば歓迎するムードが流れていると思います。したがって、毎年は無理としても、何か非常に重要な機会を見つけて、家族ぐるみの団結を行なうとか、あるいは、家族ぐるみで楽しむとか、家族ぐるみで奉仕するといったイベントがあった方がいいのではないかと思います。

アベグレン氏の『日本の経営』に『祭り』の話が報告されていたことを、妻には話していなかったのにもかかわらず、読み終わった翌日の話題に、妻から『大運動会』の事を聞いて非常にびっくりしました。『祭り』が形を変えて『大運動会』になったのだなと理解するとともに、『大運動会』の意義が『経営幹部の覚悟を高揚すること』だったと聞くに及んで、妻に感謝した次第です。

 Trackback Pings(0)

No trackbacks found.

 Comments(1)

#1: Posted by Namep [RES]

驚いて感謝して頂き、光栄です。
こちらこそ、ありがとう。
以前までは「ふーん」とロクに聞きもせず5分後には忘れられていたかもしれないような、「いつ、どこで、誰が書いたかも覚えてもいない様な話」だったのに、とても喜んで聞いてもらえて、嬉しかったです。
出所を思い出すように努力はしますが、話の大筋は消して間違っていないという自信があります。私が当時「素晴らしい話だなぁ」と感心したので、あやふやな読み方はしていないはずですよ。

 Post a Comment

コメント用フィード