子宝どっとこむ

 

 感性を研ぎ澄ます

私は、物心ついたころから直感力に自信を持っておりました。しかしそれは、試験における出題者の意図とか、目の前や電話口の相手の真意とか、そういったものを感じ取る能力に長けていたに過ぎず、今思えば偉そうなことを言えるほどのことではありません。先日書き上げた例の『随筆』でも、以下のように述べており、ついこの間までの自分を恥ずかしく思います。

『見通す力』というと長所のような気もするが、欠点でもあり、場合によっては致命的な災いを招く。

別に自分に透視能力が備わっているわけではないが、物事には因果関係というものがあり、気持ちは態度に表れたりするわけで、現在の状況や過去の経緯を分析したり、それぞれの出来事や、行動、何気なく出た言葉、ふと耳にした言葉、表情、視線、沈黙、無視、間、しぐさ等の意味を探ったり、それらをつなげ合わせて考えたりすることで、先が見通せたり、人物を見透かしたり、覚悟の程を知ったりすることができる場合が割りと多い。

当たり外れはともかくとして、そうした見通す力を持った人、もしくは見通そうとする人に対して、人は警戒心を抱く。下手な行動、不用意な発言によって自分を見透かされるわけだから当然のことだろう。

こうした人間は、言われなくても分かることは当たり前の前提として先を急いでしまう。例えば人が困っている場合、その人が困っているので助けて欲しいと言われる前につい手を差し伸べてしまい、びっくりさせてしまう。あるいは、本人も言われるまで困った状況にあることすら気づいておらず、言われて初めてなるほど自分は困った状況にあったのだと気づくとともに警戒する。

しかし、一挙手一投足、何事にも意味を見出そうとしてしまうのは、生まれ持っての性であり、どうにもならない。せめて、凡庸に振る舞い、見て見ぬ振りをし、口を慎むぐらいが関の山であるが、そうすると、「あいつは何を考えているのか分からん」となり、敵を増やす。

また、先が見通せるということは、行動に無駄がなくなるが、逆に諦めも早くなり、途中で挫折することも多い。それが高じると、行動とは理論を立証するために行なうもの、推論を検証するために行なうものと捉えるようになってしまい、目的を達成するために行動するという思考方法が抜けてしまう。つまり、極論すると、考えるだけに終始し、何もやらなくなる、何もやる気が起こらなくなるわけである。

ではどうすれば良いか、これは今もって難問である。一つは、「行動とは目的を達成するために行なうものである」ということを肝に銘じ、常に自分の目的とは何かを己に問うことであろう。そしてもう一つは、己の能力と人間的な魅力を磨くとともに、先を見通す力というのは短所でもあることをよく自覚し、その上で通じる者、受け入れてくれる者を増やすしかあるまい。

さて、『随筆』をとりあえず書き上げてから、ふた月ほどが経過し、今は多少物事を理解するようになりました。

今までの私が自負していた直感力というのは、それを自分の都合にのみ活用してきました。つまり、相手がどう思っているかを理解していても、(近視眼的に見て)自分の都合にかかわりの無いことだと判断したことは、無視するか、あるいはわざと逆撫でするような言動をとって相手の反応を楽しむということが、無きにしも非ずであったと思います。

したがって、自分の(近視眼的な)都合に関係の無い対象には、直感力を行使することをしてこなかったわけです。

ところで、『随筆』を書いてからのこの2ヶ月の間に、いろんな方とお話をする機会に恵まれ、また、いろんな書物を読みました。そして、いずれも共通することは、『感性を研ぎ澄ます』ことの重要性を私に認識させることであり、そうした結果、徐々に直感力について深く思考するに至ったわけです。

結論を申せば(といっても現時点での結論ですが)、直感力を働かせる相手というのは、目の前の相手や電話口の相手、手紙やメールで通じている相手に限るべきではなく、むしろ、目に見えない、存在すら認識できていない相手にまで働かせて、初めて自負しても許される領域であり、そのような領域に達すれば、自ずと『随筆』で述べているような悩みなど雲散霧消するということです。

つまり、見ず知らずの人や知らない土地の人、また、既に亡くなった人やこれから生まれてくる人、そういった人たちの思いを理解することが正しい直感力の使い方であり、更に言えば、人以外のモノ、動物や虫や植物はもとより、無機物にまで思いを馳せることが求められているのだということです。

本稿を書こうと思ったきっかけになったことなのですが、煙草の灰皿に対して思いを馳せました(実は煙草を再開しているのですが、この件については別の機会に述べたいと思います)。灰皿に八百万の神が宿っているのかどうかは分かりませんが、灰皿の気持ちを慮ると、「汚く使うのは灰皿が悲しむだろう」と思ったわけです。すると、直後に便器にも思いを馳せました。

先日猊下にお会いしたとき、イエローハットの鍵山相談役が、社長時代からトイレの掃除を日課としており、日本を美しくする会なるものが広まりつつあるという話を伺いました。トイレ掃除をすることで謙虚さが身につくということなのですが、正直、それを聞いたとき、「鍵山相談役はその会の草創者であり、また長年実践してきた方なので尊敬するのはやぶさかではないが、周りの人は果たして事の本質をきちんと理解して実践しているのか疑わしい」と思いました。

このときは、私も、単に鍵山相談役が、高慢にならないよう己を律するために行なってきたのだろうと思ったのですが、先ほどの件があって、鍵山相談役が便器の気持ちを慮って行なったのだと思うに至り、心から尊敬の念を覚えました。

さて、最近の2ヶ月の間に、『感性を研ぎ澄ます』ことの重要性を私に認識させたうちのいくつかをご紹介したいと思います。

まず、銀行時代の元支店長であるM.Y.氏から、「疑似体験力を身に付けよ」とアドバイスされました。どういうことかというと、こういうことです。

「人生は短く、やらなければならないことは山ほどある。無限の時間を使って、思う存分一つ一つに時間をかけたいものであるが、悲しいかな、ゼネラリストはそれが許されない。したがって、限られた時間で多くのことを理解するために疑似体験力が必要となる。人(スペシャリスト)が二年かけて身に付けた実体験を、疑似体験力をもって15分で全て理解せよ。まるでその場に自分がいるかのように、手に取るように分かるようになるものだ。それがゼネラリストという名のスペシャリストが果たす役目だ。」

次に、これは意図は違うかもしれませんが、私の確信を深めた文章で、先日来、メル友としてお付き合いいただいている温心堂主人の一節です。

信仰療法

これを全否定しない。お布施という治療費が、小遣いの範囲で融通できる額であれば副作用もなく治癒に導かれる病気があるかもしれない。癒しには神秘的な闇も必要と考えている。原因不明の病気が、どんな言葉であれ解釈が為されることは、治療家にとっても病人にとっても癒しの契機となる。時々、祈祷師のお告げと言っては漢方薬や薬草を買い求めに見えられる。その病気に適応しないだろう、、と思ってもとりあえず渡すことにしている。というのも、見当違いの薬で効いてしまうことがあるのだ。こんな事が繰り返し起ると漢方の勉強など要らぬ、効くという信念さえ研ぎ澄ましておれば良いのだと思えてくる。実際そうなのかも知れない。漢方用語の、気が神に、血が悪霊に、水が霊魂に翻訳されたとしても解釈は成り立つ。信じるか否かの問題である。通常医療も代替医療も治療家が信じるに足る言葉で医療行為を続けているのであろう。言葉を突き詰めてゆけば、実はそれほど実体や根拠がある訳ではない。免疫学と言いながら神や霊を笑えなかったりする事もある。

他にも良いと思った本のほとんど全ては『感性を磨く』『直感を信じる』ことの重要性が説かれていました。直感を信じるというのは、注釈が必要であると思われ、直感力を磨いていなければ、直感が適切に働かないと思います。

ところで、『ちょっかんりょく』を変換すると、直感力と直観力が候補として出てきます。直感の意味は『推理・考察などによるのでなく、感覚によって物事をとらえること。「―が働く」』で、直観の意味は『哲学で、推理を用いず、直接に対象をとらえること。また、その認識能力。直覚。「真理を―する」「―力」』です。

私のこれまでの能力は直感力でした。「これからは直観力を磨かなければならない」と思いました。

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