子宝どっとこむ

 

 自己否定と心の支え

自己否定のない成長は自己満足の域を出ない。つまり、壁を越えたければ自己を否定するしかない。

自己満足の世界に浸るだけでは終わらせたくないので、そうなると壁を越えることが求めれら、必然的に自己を繰り返し否定しなければなりません。

とはいえ、これまでたいした否定をしてきたわけではありません。私がしたと言っている自己否定などたかがしれていますが、それでも苦しいことは苦しいです。

例えば仕事上では、丹念に練り上げて作ったシステムを否定しなければならないときがあります。思い入れのあるシステムであればあるほど、それを否定しなければならないときは断腸の思いです。しかし、自己満足のためだけに仕事をしていいわけはなく、会社にとって今必要なシステムなのかどうかが重要となります。

プライベートでは、『子宝ドットコム』に移行する際、過去の日記の3分の2が駄文であると判断し、ばっさり捨てました。残した3分の1もこの度全て駄文と判断しました。『子宝ドットコム』になってから書いた記事も、やはり3分の2は駄文でした。そして、今残している3分の1もいずれ駄文と判断するときが来るのでしょう。

あるいは、5月から2ヶ月かけて書いた150枚ほどの『随筆』も、結局全部否定する羽目になりました。といいながら、時々引用しているということは、未練が残っている現われかもしれません(笑)

「一体自分は文章を書く意味があるのか。」「お前がやっていることは何の価値もない。無意味だ。」「お前は生きている意味すらあるのか疑わしい。」そんな感じで自分を追い込み、その上でもう一度自分を奮い立たせて、再出発します。そんな繰り返しです。といって、その程度のことしかやっておらず、この程度にしか成長していないので偉そうなことは言えませんが。

そんな私にとって、心の支えの言葉があります。この言葉があれば、今後、いかなる苦難を味わい、どのような壁にぶつかり、とてつもない自己否定を自らに迫ったとしても、きっと乗り越えられると思っています。

吉村さんは石橋をたたいて壊してまた作るぐらいの
慎重さとパワーを持っていそうなので
(あくまで私のイメージです。)
成し遂げられると思います。

何度も何度も石橋を作っては壊し、作っては壊しを繰り返し、きっと納得のいく石橋を創り上げたいと思います。

【追記】

うーん。駄文だなぁ。

霊能者のひとりごとにおいて、人生観に絡めた自己否定について述べておられますので、一部を抜粋させていただきます。

 これはある意味矛盾しているとも言えます。善悪を超えた境地や自分や他人の区別を超えた境地と説明することはできてもその境地は言葉では説明できないと言えば矛盾ではありますが、これが実感なのです。

 ではどうして目指すべき境地として言葉で説明することができ、そこに到る修行論も残されているのに、その境地に到達することが限りなく難しいのかを書くならば、それは追体験でしか知りえぬ境地であるだけでなく、その過程が際限のない自己否定の連続であることもあります。

 宗教は際限のない自己否定の連続であるとは説かれていますが、どうもこの言葉は誤解が多いような気がしています。新興宗教の多くで説かれている自己否定とは、それまでの自分の考え方を否定してその教団の教えを受け入れることでしかなく、これではただの盲信でしかありません。

 この問題は掘り下げるならば、非常に大きな問題であり、簡単に説明することなどできないことですが、新興宗教の自己否定とは自分以外の場所に自分の理想を求めているのではないかと思えます。つまり現実の自分の姿を否定して教祖の説く教えと同化している自分を理想としているだけにすぎないと思われます。

 これに対して本来の意味での自己否定とは、自分以外の場所に自分の理想を求めているのではなく、自分の中に自分の理想を追い求める行為であると考えます。これは他力門の教えでも例外ではありません。阿弥陀如来の慈悲にすがることができない自分の否定であると考えるべきでなく、阿弥陀如来にすがりきることができない自分を知ることが重要ではないかと思います。

 現実の自分以外に理想化された自分がいるわけでないのに理想化された自分を追い求めたとしても理想の自分にめぐり合えることはありません。弱い自分がいるのであるならばその自分の弱さと向き合う以外に道はないのです。

(後略)

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 Comments(2)

#1: Posted by motoricci [RES]

vulcanさん、こんにちは。
初めてコメントさせていただきます。

vulcanさんのおっしゃるところの「自己否定」と言うのは、自分自身を否定することではなく、自分の内にある弱さや欠陥や間違いを「認める」と言うことなのでしょうか?
それができるからこそ、人は成長するし強くなれるのだと思います。

一方で、生きていくうえでは「自己受容」する事も同じくらい大切だと思います。
どんなにみっともない無力な自分でも「価値がある」「かけがえのない存在」と思う強さがある事。そして、自分と同じように他人も「価値がある」と思うことができること。

今の競争社会に疲れて、鬱になっている年配者や、イジメや殺人事件を引き起こす中学生・高校生、つまり全ての社会の構成員にとって「自分の価値」を信じる心を回復させることは今の社会の課題だと思います。

#2: Posted by Vulcan [RES]

motoricci様、コメントありがとうございます。

> vulcanさんのおっしゃるところの「自己否定」と言うのは、自分自身を否定することではなく、自分の内にある弱さや欠陥や間違いを「認める」と言うことなのでしょうか?

「自己否定」の対象領域について、あまり深く考えていませんでした(笑)

鑑みるに、私の言っている「自己否定」の一つは、motoricci様の仰るとおり自分の弱さや欠陥や間違いを「認める」ということだと思います。もう一つは、自分の強さや信念を否定することだと感じます。

前者は過ちや無力に気づいた(賢い?)自分がいるわけですが、実際には得てして慢心によって気づかない(自分が見えない)ことの方が多く、否定してみてから気がつくという感じです。結果としては、自分の弱さや欠陥や間違いを「認める」ことにつながるので同じことにも思えますが、ルートが違うので両者を区分したいところです。

「自己受容」の大切さに同意します。私としては「自己受容」は「自己否定」の後に来ると考えます。あるいは両者はセットかもしれません。「自己否定」のない「自己受容」は『逃避』だとさえ思います。しかし、『逃避』というのも、実は「自己否定」の表れであり、「自己否定」に耐えられないから『逃避』するのでしょう。ということは、お説のとおり「自己受容」が大切になってきますね。こんがらがってきましたが、「否定しつつ認める」という精神が肝要な気がします(笑)

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