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 『中世騎士物語』ブルフィンチ

フレパ仲間のたんたん氏から、私がVulcanと名乗っていることをきっかけに、ブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』の話題が出て、同じブルフィンチの『中世騎士物語』を薦めていただきました。

『ギリシア・ローマ神話』の方は、神話の辞典みたいで、いろいろ幅広く取り扱っているのですが、引き寄せられるような筋立てとは言いがたく、先に読んだ『あなたが知らなかったギリシャ神話』の方がお勧めです。『ギリシア・ローマ神話』の方は、幅広く神話を紹介することと、神話をなるべく貶めないことが思想としてあったと思われ、それが脈絡のなさ、よそよそしさを感じさせるのではないかと思います。

ところが、同じブルフィンチの『中世騎士物語』の方は、非常に楽しく読みました。私は図書館で借りて読みましたが、本書を愛蔵しているたんたん氏がうらやましいぐらいです。

主題はアーサー王に関するものですが、アーサー王そのものを描くというよりは、アーサーを含めた円卓の騎士たちの武勇伝というものです。マーリン(騎士ではないですが)、アーサー、ランスロット、トリストラムなどが、ページ数も裂かれていることもあり、やはり印象的です。

この本を読み終わってから、映画「キング・アーサー」を観ました。実は過去にも一度観ていたのですが、記憶がほとんどなく、観始めて「ああ、一度借りて観たな」と思ったぐらいでした。しかし、前回はまったく監督のメッセージが理解できませんでしたが、『中世騎士物語』を読んだあとでは、理解も早く、何が伝えたかったのかが、自分なりに考えることができ、今回借りたのは非常に意義が大きかったと思いました。

『中世騎士物語』において、アーサーが王になった由来は書かれてはいますが、必然性はあまり感じられません。運が良かっただけという印象です。王となった以後は善政を執ったのでしょうが、有能な騎士を統率するほどの人徳があったというのが腑に落ちないほど、今ひとつ印象が低いというのが正直なところでした。

そうした、私のような者の疑問に答えるために作られた物語が『キング・アーサー』であったのではないかと思います。アーサーの、卓抜した正義感、孤独、友情、勇気が円卓の騎士の結束を導いたのだということが、よく分かる映像でした。

最初、アーサーがローマ人であるとの設定に、違和感を覚え、マーリンが敵であることにも疑問を感じました。また、円卓の騎士といっても、ローマに雇われた軍人であり、言ってみればサラリーマン、悪く言えば服役囚なわけで、私の持っていたアーサーと円卓の騎士像はもろくも崩れ去りました。おそらく、こうした印象が、前回観たときに、拒絶反応だけが残り、メッセージを受け取る余裕ができなかったのだと思います。

ところが、今回改めて観てみると、こうした、私の固定観念をぶっ壊す設定が、返ってエンディングを意義深いものにしたことが理解できました。最後に偏見を捨て、過去のしがらみを捨て、ブリトンの王となり、いよいよこれからアーサー王として、円卓の騎士とともに輝かしい時代の幕開けとなるところで映画は終わります。後は皆さんおなじみのアーサー王ということで、今更語っても仕方がないということでしょう。

ところで、『中世騎士物語』ですが、いくつか記憶に止めたい箇所がありました。その中で二箇所を引用したいと思います。

西暦五世紀頃、ローマ帝国が滅亡すると、北部ヨーロッパ諸国には国家的な政府はほとんどなくなったような状態になった。多少とも勢力のある領主たちが、それぞれの領地内で権力を振って地方の政治を執り、たまに共通の目的のため団結することはあっても、ふだんは大方反目しあっているのが常であった。かかる状態のもとでは、平民の権利というものは蹂躙されるままであったから、もし領主たちの勝手な権力を抑圧するなんらかの力がなかったら、おそらく社会は野蛮時代へ逆行してしまったであろう。

幸いそれを食い止める力は、先ず領主たち自身がお互いに対抗し合っているという点に見出された。相互の嫉妬心が彼らをけん制する結果になったからである。次には動機は何であれ、とにかく弱いものを護ることを天職としている教会の影響があった。最後にはいかに情欲や我意にくらまされていても、人間の心の中には生れながら宿っている正義感と寛大の中に、その抑制力は見出されたのであった。

この最後の原因から騎士道は起こったので、無敵の力量、勇気、正義、謙遜、長上に対する忠誠、同輩への礼節、弱者への憐憫、教会への献身等の諸徳を具備する英雄的性格の理想を造り上げた。それはよしんば現実生活においては到達されないとしても、なおもって学ぶべき最高の典型としてみな人に承認されていた理想であった。

教会にも動機が様々あるということをやや皮肉って表現しているところも痛快ですが、ここで述べた理想の騎士像はあくまでも理想に過ぎない可能性を示唆しているのは現実的な発言です。そして、『キング・アーサー』において、アーサーが信じている神は幻想でしかないと言われるシーンを思い出させます。それほど、理想の人物や思想というのは稀有な存在であり、現実的ではないとみなされるのでしょう。

誰の目にも明白なことは、こういう手段で行なわれる社会正義が、いかに乱脈なものであったかということである。本来の目的は悪を矯めるはずの力が、とかくに濫用されてかえって悪を与えることもあった。

従って筋は架空的であるにしろ、当時の世情を正確に写している多くの騎士物語から、私たちはある騎士の城が周りの土地にとっては恐怖の的であった事実を知ることができる。

(中略)

騎士道に関するこの種の理想と実際との矛盾が、騎士道に対して人々の抱いている全く反対な印象の説明となるであろう。一方において騎士道はもっとも熱心な賞賛の主題とされてきたとともに、他方では同じ熱烈さで非難されてきたのである。冷静に批判すれば、騎士道は近代に至って法律の支配に打ち負け、文官が(見た目は騎士ほどに絵画的ではないけれども)鎧を着た闘士に取って代わったということを、私たちは慶賀しないではいられない。

慶賀の字義は『喜び祝うこと。祝賀。』です。一見似つかわしくない表現に思いましたが、確かに冷静に騎士道を批判すれば慶賀という表現も肯かざるを得ない点もあるように思います。しかし、ブルフィンチが『中世騎士物語』を書いた1858年ならいざ知らず、文官の腐敗した現代においても、果たして慶賀という言葉が似つかわしいかと言えば、ちょっとまったと言わざるを得ません。

武官にせよ文官にせよ、理想は稀有であり、徳は容易にゆがめられるということを肝に銘じなければならないと思いました。

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